弱くないやつは強くなれない

  • これはもはや趣味とか嗜好とかの域を越えて思想だったり性癖だったりするのかもしれないけれど、小さいころ大相撲が割と好きで見ていたのだけど、でも千代の富士が大嫌いだった。理由は「強いから」。取組を見なくても翌日「千代の富士、勝ってたね」と当てずっぽうに口にすれば9割方当たる、そういう予定調和が厭だったのです。なんて可愛げのない子供だろう我ながら。
  • そんなんだから当時の僕は相撲ごっこ(正確には星取表ごっこ。近所の友達と相撲取ったりは、しない。)遊びをするとき、横綱の名前を『全敗山』と命名して一人で楽しんでました。全敗山が全勝優勝するご都合主義なシナリオを頭の中で描くのが、なんかすごく爽快だった。ついでだから言ってしまうと、僕は大相撲そのものじゃなくて星取表の白と黒が織り成す幾何学模様が好きだったのかも(囲碁好きの父からの変則的遺伝だと僕は信じている)。で、白黒模様のデザイン的メリハリも知らないで白ばっか並べるワンパターンな千代の富士が嫌いだったのだ。なんて憎たらしい子供だろう我ながら。
  • この考え方は今の僕の演劇の観方にも脈々と受け継がれていて、大好きな作品はみんなどこかしら破綻した(タガの外れた)ものが多いし、たとえば「明日も今日と寸分違わぬものが見れる」みたいな安心感は、極端な話、演劇というジャンルにはいっそ必要ないとさえ思っている。
  • と言いつつも、自分がスタッフ側に回れば、あらゆる破綻を未然に防ぎたいと普通に思うし、今日と明日でクオリティが違うなんてもってのほかだとも思う。でもこれも実は矛盾してなくて、本当に僕が見たい破綻とは「完璧に修復したつもりの防波堤」の隙間や上のほうから、それでも染み出してくる水のようなアレコレだったりするのです。せりふを噛まない役者なんて、役者としては100点かもしれないが人間としては75点だ。セリフを噛んでしまった瞬間の表情の変化やその後のフォロー、巻き返し、そういう部分をこそ僕は人間と呼びたい。なんて歪んだ性格だろう我ながら。