バファリン片手に読むがいい

烏有此譚

烏有此譚

 円城*1作品の最高傑作、だと個人的には思っています。それはつまり「いよいよ何言ってんだお前」という領域に踏み込んだ証明でもあるのですが。
 みなさんは浅田彰の『構造と力』*2を読んだことはありますか? 僕は読んだような読んでないような、「文字列*3を目で追った」のを「読んだ」と言っていいなら読んだし、「内容を理解した」のでないと「読んだ」といえないなら1ページも読んでません。けれども、読んでいて笑いが込み上げてくる瞬間は何度もあった。もちろん書名から分かるように『構造と力』はコメディではないし小説ですらないのですが、仮にも日文専攻*4の学生だった僕が『日本語で書かれているのに何を言ってるのかわからない』という超常現象*5を前にして有り余る時間を図書館で一人、ひたすら「読解力のあるふり」を続けるしかなかった事実は、客観的にみて、かなり笑える。
 さて、それをふまえて『烏有此譚』。難解な文章には膨大な知識量が詰め込まれており、それを紐解くためには莫大な数の脚注が必要になる。ここまではわかる*6。しかし、脚注が意志を持ち本文を食い散らかす*7までに至ると、もはや眉間に皺寄せて読んでる場合じゃなくなります。日本語で書かれた文章が『縦書きなら右上から左下へ、横書きなら左上から右下へ』読まれなきゃならないというルールから解放されたように、本文から脚注へ脚注から本文へ、ページをまたいで目移りにつぐ目移り*8。そして何より恐ろしいのは、こんなに大量の脚注や参照文献を伴っておきながら、読後感として何も残らないことです。それに気がついた瞬間に込み上げてくる笑いの種類は到底分類できるものじゃありません。
 暇と体力を持て余し気味な年末年始におすすめの一冊*9です。

*1:この作者名を円城/塔と区切るのが正しいのかどうかは議論が分かれるかもしれない。円/城塔かもしれないし円城土/サ合かもしれない。もしかしたら区切る必要はないのかもしれない。誰彼構わず苗字と名前に分解しようとする思想の危険性について、あれこれ考えてみても戦争と同じで何も生まれない。

*2:名著である。どれくらい名著かというと、誰かが「名著ではない」と言ったとしてもその評価に何の影響も及ぼすことができないほどである。悔し紛れに「全然わかんなかった」と言ってみても「まあ、名著だからねえ」と受け流されるだろう。

*3:でも、たとえば「吾輩は猫である」と「『吾輩は猫である』の文面そっくりに見える壁の染み」とでは、どっちが面白いんだろう?

*4:日本文学を専らに攻めること。いくら攻めても日本文学は倒せそうにない、との悟りと引き換えに卒業資格を得ることが多い。

*5:常(普通)を超えた現象のこと。「チョー普通の(ありふれた)現象」とも読めてしまえるのが日本語の厄介なところでありチャームポイントでもある。

*6:本当にそうか?

*7:この逆転をエディプス・コンプレックスの観点から論じるのは自由ですが、たぶん虚しいだけだから止めておいたほうがいい。

*8:脚注というより「DVDの副音声」みたいなものだと思って読むのが実は一番しっくりくるのかもしれない。

*9:とはいえ、こんなの読むために年末年始はあるわけじゃない、ともいう。