Better than "more better"

properties2007-08-13


 意味があることに必ずしも意味はなく、意味がないものにも意味付けはできる。ベターポーヅを観るうち、手伝ううち、関わるうちに僕が自然とたどり着いたのはそんな持論でした。
 そりゃ確かに作家は演出家は綿密な計算に基づいて作品を作り上げなくちゃならないのかもしれん、かもしれんが綿密度と面白さとの間には結局何の比例関係もないし、死ぬほど苦労して書き上げた自称大作が全然面白くないこともあれば、パピコかなんか食べながら数分で走り書いた手抜き作品が全世界から絶賛を浴びることも(可能性として)ありうるわけで、途中の計算過程がどうあれ観客の採点対象となるのは常に答えだけ。しかも、こちらが提出した答えと相手が読み取る答えは必ずしも一致しない。と、これが演劇に限らず表現全般を取り囲む厄介な状況なのですが。
 そんな中、ベターポーヅは『どうしてそんなことになっちゃったのか』という計算過程を徹底的に端折り、いきなり解答用紙を物凄い速さで埋めていくので、観る側の僕らはそこから数式を逆算するしかないのです。『3』を見せられて『1+2』と取るか『141×153÷799の3乗根』と取るか、もっともっと複雑な構造を思い浮かべるか、演出意図は人それぞれに形を変えて届く。当然、それに従って話の面白さや深みも変わる。同じシーンを観ているのに笑う者もいれば泣く者もいる。最初はそれがとても不思議だったけど。いや、いまでもそのメカニズムは不思議のままなのだけど。
 ベターポーヅ全史において僕が居たのはわずか14分の3年、28分の5作品だけですが、その不思議なインスピレーションに打たれる経験がなかったなら僕もここまで『想像力を刺激する小道具』という面白さに心奪われることもなかったのかな、と。36度の真夏日に汗ひとつかかず裸足で冷たい砂の上を歩くような、ドライでアンバランスでスットンキョーな心地よさが好きでした。
 僕もそれなりの数の芝居を観たり関わったりしてきたつもりですが、千秋楽、あんなにも鳴り止まない拍手喝采を聴いたことはありません。最終公演を最高傑作で飾ることができた充実を、自分がベターポーヅの一部として確かに存在できていたという実感を、最後の最後に西島さんが見せたベタポらしさを象徴するかのような神業としか思えないトチリを、噛みしめながら、
 14年間お疲れ様でした。